透明な何もない檻の

俺はいつの間にか森の中を歩いていた。
いつから歩いているのかはわからない。気付いた時にはここにいたような気がする。なぜここにいるのかわからない。誰かと待ち合わせのためにここに来たのかも知れない。誰かとどこかに行く約束があった気がする。だがそれももやがかかったように思い出せない。
足を踏み出すたび、落ち葉が音を立てる。木漏れ日はさらさらと音を立てながら明るい筋を作る。
とりあえず、森を抜ければ誰かに会えるだろう。それに、この森には見覚えがあるような気がする。
ならば、心配することはないだろう。きっと、歩いていれば思い出すはずだ。
どれくらい歩いただろうか。
まぶしい。森が突然消えた、そうとしか思えなかった。
見まわすと、俺はまだ森の中にいた。ただ、森の中に唐突に表れた木々のない開けた場所に出ただけだった。
上を見上げる。とても薄い雲が空全体を覆っているが、かろうじて青空だ。
太陽は、頂点になかった。空のかなりの部分が森のせいで見えないので、太陽の位置はわからない。だが、空が青いので夕方や早朝ではない。
空から視線を下す。
「何か見えたかしら」
俺は飛び上がりそうになった。よくいえば年季の入った、悪く言えばボロボロな、くすんだピンクのロリータ服を身にまとった少女。レースはところどころちぎれ、スカートや袖の端は擦り切れている。
「ここはどこだ」
とりあえず尋ねてみる。
「お花畑よ」
歳は十七、八だろうか。長い黒い髪、同じく黒い瞳。その瞳はうつろだった。
「どこの」
「森の中の」
答えになっていない。
「まだあなたはあたしの質問に答えていないわ」
俺が黙っていると、
「何が見えたかしら」
と問いかけられた。
「空にか?」
「空が見えた?」
緊張感のかけらもないような、あるいは緊張しすぎて切れてしまったような声で、少女は話す。
俺は黙った。この少女は明らかにまともじゃない。
「空って何だと思う?」
「空気だろう」
「では、これは空?」
少女は手をひらひらさせた。
「いや、違う」
「なぜ?」
「俺たちの立っている高さより高い場所の空気が、空だ」
「では、これは空?」
少女は手を上にかざす。
「そうかもしれないな」
「そうかもしれないわね」
おうむ返しのように繰り返した少女のうつろな瞳が、一瞬だけ俺の目を見たような気がして、俺は立ちすくむ。うまく表現できないが、絶対者の視線、と表現できそうだ。その目で見つめられたら、どんな命令も聞いてしまうような、見つめられるだけで立場の絶対的差をわからされてしまう、そんな目だ。
「ここがどこかわかるか?」
俺はもう一度訊いた。
「あなたはわからないの?」
見つめられる。だが、けだるい視線だった。
「ああ」
「かわいそうな鳥さん」
「コックロビンか」
「かわいそうなカナリアの、お葬式の鐘を、」
少女は俺を見つめた。
絶対者の視線。
「神はいると思う?」
適当に答えることは許さない、というメッセージが、言葉ではなく概念そのもので込められたような視線だった。
「いるんじゃないか」
答えを、のどの奥から絞り出した。
「そう」
少女は目を伏せた。
「会ったこと、ある?」
「あいにく、ないな」
「残念ね」
全く残念だとは思わなかった。
「座る?」
少女は腰かけている倒木を指して言った。
「ああ」
「透明なかごがあるの」
少女は話し始めた。幼女のように足を揺らしながら。
「生きているのよ。とっても美しい」
視線は森の奥へ向けられているが、何も見てはいないだろう。
「あたしは中に閉じ込められているの、とってもきれいなかごよ、透き通った、きれいなかご。その中にあたしは閉じ込められていた。いつの間にか閉じ込められたわけではなくて、入ったら出られなくなってしまっただけなのだけれど。
でもある時、もう一人閉じ込められていることに気付いた。
『あなたも閉じ込められたの?』
女の子だったわ、あたしより少し年上に見えた。きれいな、だけどあたしのよりはきれいじゃない黒くて長い髪をしていた。
『出られるかしら?』
わからなかった。それに、あたしは出ようと思ったことなど一度もなかったのよ。
『わたしは出ようと思ったけれど、だめだった』
『わたしは』と『出ようと』のあいだ、『出ようと』と『思ったけれど』のあいだに、つまりは文節のあいだに、読点の半分くらいの休止があるしゃべり方をした。
『あなたはどうしてここに来たの?』
彼女は訊いた。
忘れてしまった、とあたしは答えた。
『わたしはね、』
と彼女は話し始めた。かごに入った理由から始まって、彼女の過去をさかのぼる長い長い思い出の話が始まった。その話が終わるのを、彼女は恐れていたのだと思う。その話が終わったら、ここですることは全くなくなってしまうから。あたしは平気だった。何年もひとりで過ごさなくてはならなくなっても、退屈かもしれないけれど怖くはない。
やがて彼女の話が終わった。
『話すことがなくなってしまったわね』
彼女は言った。あたしたちはすべきことを失った。“すべきこと”などもとから存在していないけれど、本当にあたしたちはすることがなかったわ。かごのそこには砂が溜まっていたから、そうよ、かごは水の中にあるの、その砂に絵を描いたりして遊んだりもしたわ。けれど、」
少女は俺に向きなおった。
「一番長く遊べたのは、何だと思う?」
俺は周りを見回した。もやがかかったようにぼやけて、よく見えない。半透明な壁があるかのように。
「そうね、とりあえずはあなたからも、思い出話を聞いておこうかしら」

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サークルに出すために書いた物。去年(2010年)の七夕が提出日だったので、今となっては何を思って書いたのかよく分からない。カイロウドウケツがモチーフになってるんだけど。ネタを提供してくれた鈴さんに感謝。