プシュケー(take2)

安らかに眠るには涼しすぎる気温と、眩しすぎる日差しで目が覚める。
横には死体が二つ横たわっている。子供とその母親だ。
幼女の方は解体済みで、昨日の夕食だった。親の方はこれから解体し、今日の食料となり、残りは天日干しにして保存食だ。
腕をナイフで切り取り、肉をそぎ落とし、昨日殺したものなので、火を通して食べる。
話す相手もなく、黙々と食べ続ける。周りは疎らな林である。

ガサッ

足音がした。俺は反射的にナイフを掴み、息を殺し、耳を澄まし、目を凝らした。

「ねえ、食べ物、私にも分けてくれる?」

少女だった。武器のようなものは持っていない。麻袋を持っているが、中は空のようだ。
「ねえ、もらっていいの?」
俺は驚いていた。全く彼女に気がつかなかったからだ。いきなり現れた様に思われるほどだった。
別に、かまわないけど。俺はかろうじてそういった。声が上ずっていたかもしれない。
「ありがとう」
俺は無言で肉を口に入れた。
やっと少し落ち着いて、俺は少女をよく観察する余裕を得た。年は十五、六だろうか。白い麻袋に穴を開けて首を通したような服を着ていて、肌の色も白く、髪の黒さや瞳の黒が際立っていた。死体の左腕の肉を噛み切って吐き出し、火で炙ってから食べている。
人肉を普段から食べるのだろうか、と疑問に思ったので聞いてみる。
「食べれるけど、あんまり好きじゃないな。料理はしないの?」
俺は料理をしない。出来ないわけではないが、積極的にはしない。
「今度何か作ってあげるよ。ここには使える木の実とかがないからだめだけど」

会ってからまだ一時間もたっていないのに、なぜか少女は友達に話すような口調だ。警戒しないのだろうか。こっちはナイフを持っていて、殺そうと思えばすぐに殺せるのに。

「後で私を食べようとしてる?」
彼女はそんな事を聞いた。
食料が足りていたので、俺はその時点では彼女を食料としては見ていなかった。
「今は、ね」
と彼女は言って、俺は黙り込む。
「もし食べるのなら、殺して食べるのなら、残さずに食べてね、骨になるまで残さずに」
彼女が妙に真面目な顔で言ったので、俺は何も言えなかった。

そして昼食も夕食も、彼女とともに食べることになった。

次の日。

「んん、おはよう」
いつまで彼女は俺と一緒にいるつもりだろうか、そう思いながら返事を返す。
俺は昨日の昼から天日干しにしていた肉を鞄に入れ、焚き火の跡に土をかける。
「出発するの?」
ずっと同じ場所にいるのは嫌いだ。それに、何があるか分からないから定住は避けるべきだと、俺は思っている。
彼女もついて来る。
何で俺と一緒に居るんだ?
「誰かと一緒に居たほうが心強いし」
俺と一緒に居たところで、危なくなったら俺はお前をおいて逃げるだろう、と思った。
「いいの、別に。あ、猫だ」
ちょっと大きめの猫だった。
彼女は石を持って猫に向かって投げる。
「えいっ」
ゴカッという音がして、石は木の根に当たった。猫は逃げた。
駄目じゃん。
「まあ仕方ないよ、そうだ、猫は食べないの?」
以前一度食い物に困って食べた事がある。もう二度と食わない、そう決めた。
「そう? きっと食べ方が悪かったんだよ。料理すれば美味しいよ、ハンバーグみたいにすれば。そうだ、今度料理作ってあげるって言ったよね、猫ハンバーグ作ってあげるよ」
彼女は両手を頭に付けて、「にゃんっ」と言った。俺は無視を決め込む。
猫ハンバーグ、ね。楽しみにして良いものだろうか。
俺は、彼女との会話を楽しむようになっていた。人とまともに話すのは久しぶりだったこともあるだろう。そして、もしかするといつの間にか彼女に好意を持っていたのかもしれない。

歩き始めて二日目の夕方。
俺達は思いがけない危機に陥った。
野犬の群れに囲まれたのである。
ここに住む犬達は五、六匹の集団で暮らす。俺達は運悪く獰猛な犬達の狩りの標的になってしまったようだ。
ぐるぐるとうなりながら、俺達を取り囲むように円を描く犬達。
犬相手では走って逃げても無駄だ。もし彼女を囮にすれば、俺は助かるだろう。彼女に出会ったばかりの時の俺なら迷わずそうしただろう。だが、今の俺にはなぜだかそれはいけない事のように思えた。
俺は鞄に干し肉が入っていることを思い出した。しかしこれは俺達の食料でもあるので、ここの犬にやってしまえば、俺達が餓死してしまう。どうすればいい。
俺はナイフを取り出し、彼女にも予備のナイフを渡しておく。そして、干し肉を一切れだけとりだすと、三匹の犬が比較的集まっているところに向けて投げた。
三匹が肉に気づき、そこへ向かう。群れの規律が乱れた。未だ俺達に狙いを定める二匹に向かって俺は走って行き、ナイフで首を狙って切る。血が噴き出す。もう一匹も同様に切り、肉を奪い合う三匹へと向かう。血の匂いに気づいた三匹が肉から離れ、こっちへ向かってくる。跳びかかって来る一匹をナイフで刺し、噛み付こうとしてきた一匹を足で蹴りつけ、かかとで脳天を割ったが、一匹が彼女へと向かってしまった。俺はとっさに彼女の名前を呼ぼうとして、まだ名前を知らないことを思い出した。
彼女は持っていたナイフで跳びかかって来た犬を刺した。犬の血が彼女にかかる。
噛み付かれたりしなかっただろうか。
「大丈夫。ちょっと引っ掻かれたけどね」
辺りはすでに暗くなっていた。
「でも、少し怖かったな」
星がまたたき始めている。
「なんか心臓がばくばく言ってるもん」
俺は彼女に歩み寄った。
地面は野犬の血で濡れている。
俺の手が彼女の肩に触れて、彼女は僅かに身震いした。
彼女は微笑んでいたと思う。俺は彼女の白い服が月明かりを映して闇から際立っているのをきれいだと思った。
彼女を抱こうとしてさらに近づくと、彼女が少し後ずさりしかけ、血でぬかるんだ地面に足を取られて転んでしまった。
肩に手をかけていた俺も一緒に転び、彼女に覆いかぶさるように倒れた。彼女の手が俺の頭に置かれ、俺は彼女の胸に耳を付けた。
心臓の音が聞こえた。どくんどくん、とすこし速めに動いているのは、犬に襲われた恐怖の余韻かそれとも、と考えて、俺は視界の先に野犬の死体と、昇り始めた月を見つけた。
俺は野犬の死体が散らばる中で何をしようとしているんだ。
おかしさがこみ上げてきて、俺は立ち上がって大声で笑った。彼女は不思議そうな顔をしている。
彼女のどくんどくんという心臓の音が耳に残っている。その鼓動を、もう一度聞いてみたいと思って、俺は彼女の手を取って立ち上がらせ、抱きつくようにしてその胸に耳を付けた。彼女が浴びた野犬の血の匂いが鼻につく。だが、彼女の鼓動は俺に久方ぶりの安らぎを与えてくれた。

歩き続けること七日ほど。俺たちはようやく泉に着いた。
野犬に襲われた次の日辺りから、彼女は体調を崩した。引っかかれて出来た傷に犬の血液がかかって、病気に感染したのだろう。俺もその病気にかかった事がある。酷いときには死んでしまうが、一度感染すれば免疫が出来て二度とかからなくなる。彼女には免疫がなかった。
泉のほとりにある木々のふもとで彼女を休ませておき、俺は水をくみに行った。
皮袋いっぱいに水を汲んで帰ってくると、彼女は酷く辛そうな様子で横たわっていた。
かなり危ない状態だ。熱が恐ろしく高く、呼吸が浅い。
彼女は目を開けて、弱く息を吐きながら言った。
「もう、駄目かもしれない、ね」
絶対に助かる。そう、思いたかった。
「今まで、ありがとうね。犬と戦ってたの、かっこよかったよ」
勝手に死ぬな、とだけ思った。俺はまだ猫ハンバーグも作ってもらってないんだぞ。
「ごめんね、ごめん」

沈黙。

「お願いがあるの」
「何だ?」
「私が死んだら、残さずに食べてね、骨になるまで残さずに」
「どうして?」
「死んじゃっても、だれかにわたしのすべてを食べてもらえたら、その人の中で生きられるような気がして」
「なんかの宗教か」
「違うよ、私が思ってるだけ」
沈黙。
「絶対に。お願いだから」
「わかったよ」
「絶対だよ。骨になるまで、絶対に。約束だよ」
「わかった。約束する」
「ありがとう」
俺は、彼女の胸に耳を付けた。
とくん、とくん、と弱弱しい音が聞こえて、俺は泣きそうになった。

彼女は程なくして息を引き取った。

俺は何をする気にもなれなかった。
彼女を抱きかかえて樹の幹にもたれたまま、ぼんやりと風に揺れる樹の枝を眺めた。
ふと俺の頭の中に、彼女の鼓動が響いた。最初に聞いた力強く速い鼓動。二回目の、弱弱しくかろうじて収縮を繰り返す音。その音は泡のように生まれては消えていく。俺はそんな耳鳴りではなくて、彼女の確かな鼓動をもう一度聞きたかった。
もう一度、今や冷たくなってしまった胸に耳を付けてみようと思ったが、どうしても出来なかった。
そして次の日、彼女の死体の隣で俺は目を覚ました。深呼吸の後、思い切って彼女の胸に耳を当てた。何も聞こえなかった。当然だ。彼女は死んだのだから。納得できていなかった現実が解凍され、目から涙があふれた。ぼやけた視界の中で彼女の解体にとりかかる。彼女の体にナイフを突き立てている間、涙が止まらなかった。

彼女の全てを食べ尽くすのに三日ほどかかり、俺は骨だけになった彼女を見つめた。



彼女の魂は俺の中で生きているのだろうか?
彼女は俺と共に生き続けているのだろうか?
わからなかった。


更に次の日、俺は彼女の骨を彼女の麻袋に入れ、それを持って出発した。

もしかしたら、俺がこうやって彼女の事を思い続ける事が彼女が「生きている」と言う事なのかもしれない。

彼女は間違いなく生きている。

耳を澄ませば聞こえる、彼女の鼓動。

強く、確かに。

俺の中で、彼女の鼓動は今も続いているのだ。