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食用肉になった男の話

目が覚めたら、宙に浮いていた。もちろん空を飛んでいるわけがなく、重力に引かれるまま床に張り付いているのは分かっているのだが、体が接地している感覚がなかった。

室内は暗く、自分がどうなっているのかさえわからなかった。普通なら視覚に頼らなくても自分がどういう姿勢を取っているかはわかるはずなのだが、全く感覚がない。どういう事だろう。

俺は死んだのかもしれないな、とふと思った。この妙な浮遊感と身体的感覚の無さは、幽霊になったからだと考えれば、少しは説明がつくような気がした。

暗闇に目が慣れてきた。感覚も、わずかながら回復してきた。相変わらずどんな姿勢をしているのかはわからないが、俺はうつ伏せで寝ているらしい。体の腹側に、何かが触れている感じがあった。

どこにいるのかと周りを見回すと、土むき出しの床、三面(おそらく。後ろは見えないから)を囲む石でできた壁、そして正面の壁がない部分には鉄格子が嵌められている。なるほど、地下牢だ。俺の記憶から最も近いものはそれだった。最も、俺は地下牢に入れられたことなど今まで一度もないはずだから、その記憶の参照元は小説か何かだろう。どうも記憶が曖昧でよく思い出せない。俺は何をして地下牢に入れられたのか? 目覚める前のことが何も思い出せない。


俺は気が狂ってここに入れられたのかもしれぬ。そう考えれば記憶の喪失などの説明がつくが、俺の思考は、俺が思うに正常である。身体感覚の無さを除けば、だが。

やはり気が狂ったのか、と一人黙考していたが、不意に鉄格子から光が差し込み、俺は目を細めた。顔をしかめたのかもしれないが、顔がどういう動きをしているのかわからない。視力とそこに関する器官だけに感覚があるようだ。

足音が近づいてくる。二人分の足音だと思う。大方新しい囚人と看守だろうと予想した。

俺の牢の前で人が立ち止まる。逆光のせいで影にしか見えないが、予想通り二人だった。背の高い方が俺の牢の鉄格子をあけ、背の低い方が中に入れられる。

牢にも相部屋などというものがあるのだろうが、ここはどう見ても一人部屋だった。一人部屋に二人も入れるとは、よっぽど気が狂った人間が多いらしい。

「排泄は奥の隅にある窪み、水はそこの皿、そしてその皿に乗っている視肉が餌だ。どこからちぎって食べてもいいが、目だけは食うな。わかったか」

看守と思われる人がそういった。看守という役には似合わない、若い女性の声だった。

「そしてその皿に乗っているシニクが餌だ」と言ったときに俺を指さしたのはどういう事だろうか。シニク。歯肉、死肉、屍肉。おや、漢字に変換したところ俺は三分の二の確率で死んでいることになった。シュレディンガーの猫より死んでいる。やはり俺は死んでいるのか。そして、この囚人の食料となるのか。もうちょっといい死体の使い方はなかったのだろうか。


ところで、俺は皿に乗っているらしい。ちょっと視線を下に下げてみると、白く光沢を持った円盤の縁のようなものが見えた。なるほど、皿と言われれば皿だ。縁の湾曲具合から察するに、この皿はそこまで大きいものではなさそうだ。少なくとも、人が乗り切るサイズではないだろう。俺はすでに料理されているのかもしれない。

鉄格子は閉じられ、看守はいなくなった。また暗闇に包まれる。目が暗順応するのを待ち、囚人を観察する。驚くことに、こちらも女だった。女というより少女と呼ぶ方がいいだろうか。10代の女の子が、全裸で地面に座り込み、茫然自失の体だった。どうあがいても自分の置かれている状況が最悪以上にならないことを知ってしまったような表情。同情、しなかった。自分の状況すら把握できていないのに、相手の心情を慮ることはできない。


やがて彼女は姿勢を変え、膝を抱えるとすすり泣き始めた。そのまま数時間が経ったが、俺は飽きもせずそのまま彼女を観察し続けた。他にやることがないのでそうするよりほかなかったのである。体の感覚も依然はっきりしない。彼女は寝てしまったようだ。

俺は眠気も感じなかったので、そのまま彼女を見続けた。肩より少し下まである髪は、暗くて色がよくわからないが、おそらく黒だろう。全体的に華奢な体つきだが、思春期の少女らしく丸みを帯びている。胸に膝を抱えているためよくわからないが、おそらく乳房は人並みにはない。全くないわけでもないが、まあ、成長前なのだろう。

何時間そうしていたのかは分からないが、彼女が目を覚ました。立ち上がると、調子を確かめるかのように体を揺らした。そして、俺の方へ歩いてきた。俺は彼女を見上げ、食われるのかとちょっとだけ覚悟したけれど、彼女は素通りした。行き先は、どうやら看守に排泄場所として指定された場所らしい。細い水の流れが地面に当たる音がやけに大きく聞こえた。その後、別の種類の水音がした。皿に貯められた水で手を洗っているようだ。水を飲む音がして、その後はどうやら体を洗っているらしい音が続いた。こんな状況でも女性は身だしなみに気を使うのだろうか。

彼女は定位置に戻り、石の壁に背を預け、足を投げ出して座った。俺は何もすることがないので思索に耽った。もちろん、俺がどうなっているのかの答えは出ない。どうしたものか。


彼女が動かないまま数時間が過ぎた、と思う。どうも意識が集中を欠き、時間の経過を感じることができない。暇だとも感じない。彼女が動いてくれれば少しはそれに集中できるかもしれない。と考えているうちにまた結構な時間が過ぎたと思われる。思考速度がとても遅くなっているのかもしれない。

彼女が動いた。立膝になり、うつ伏せに寝転ぶと、寝返りをうって天井を仰いだ。寝るつもりだろうか。とりあえず俺はまだ食べられないようだ。

それほど時間が経たないうちに、彼女は起きた。腹に手を当てる。腹が痛いのか、と思ったが、どうやら空腹らしかった。こちらをちらちら見てくるが、俺食べられるのかな。だが、どうやら決心がつかないらしく、こちらに近づいては来ない。俺はあまり食べたくなるような姿ではないようだ。

そのまま数時間が過ぎた。少女は落ち着きがない。葛藤が渦巻いているに違いない。

また数時間が過ぎた。少女は立ち上がらず、這うようにしてこちらに近づき、俺に手を伸ばした。何度かつつかれる。ふむ、視覚情報では頭を触られているはずなのに、触覚では左足を触られている。俺は丸められているのか? そして不意に、むにゅっと足をもがれた。痛くない。というか、もがれたのはわかるのだが、まだ感覚が通っている。不思議な感覚だ。足が自分の体からから切りはなされたのにもかかわらず、その足が触覚を伝えてくれるのだから。そのまま彼女は恐る恐る口に運び、俺は自分の体を見ることができた。スライムのような、均質な半固体状の肉塊だった。もちろん、足の形などしていない。俺は肉塊になっていた。でも目はあるみたいだし、聴覚もあるので耳もあるようだ。目のある肉塊。我ながら気持ち悪いと思う。

彼女は一握りの肉塊を口中に収めた。目を閉じ、涙を流しながら。まずいのだろうか。まずくなくても、視覚的にいただけないのかもしれない。

ぬるっとした感触に足が包まれて、俺は寒気を感じた。彼女の口の中の感触が、足を通じて俺に伝わってきているのだ。硬い物が当たるのは歯で、にゅるにゅると動いているのは舌だろう。俺は咀嚼された。一度目で足が膝のやや下で二つに裂かれた。切れ目に唾液が入り込む。次は足首が切られた。舌が動き、足首とふくらはぎの位置が入れ替わり、ふくらはぎが歯に切断された。噛みちぎられ、どんどん形を失っていく。歯が肉に突き刺さる感触を知った。舌がかき混ぜ、唾液と混ざり、俺は少しづつ嚥下された。喉は細くてなめらかに蠢いていた。程なくして胃にたどり着いた。胃は熱かった。俺は少しづつ形を失った。このころから、少しづつ感覚がなくなってきた。消化が進んでいるのだろう。胃が動き、流体となった俺は流されて十二指腸に送られた。そして小腸にたどり着き、ここで感触が全くなくなった。最後に触れた小腸の壁は濡れた絨毯のような感触がした。

少女の体内に集中していた俺の意識が、外界に向けられる。少女は寝ていた。

強烈な体験だった。おそらく、意識を保持したまま咀嚼され、嚥下されて小腸まで達した生物は俺以外いないだろう、と思った。だが、あまり良い体験ではなかった。自分が食われて消化されるさまが手に取るようにわかるというのはおぞましいものだった。俺は彼女の次回の食事に怯えた。


彼女はどうやらあまり食事を取る気は無いようで、またふて寝している。俺はまずかったのだろうか。会話が出来ればいいのだが、俺は話せない。


数日が経った。少女は何度か食事を取ったが、俺の体が減っている様子はなかった。食べられてもすぐもとに戻るようだ。何度も食べられているうちに、自分が食べられ消化されるおぞましい感覚にも慣れてしまい、することも無く退屈に過ごすしか無い時間の中で唯一強烈な感覚を得られるイベントとして楽しみにする気持ちすら芽生えてきていた。



更に数日が経った。その日も俺はいつものようにちぎられ、噛み砕かれ消化されていたが、その後に不思議なことが起きた。その日食べられたのは左腕だった。少女は俺の左腕をちぎり、口に入れた。歯が迫り、俺の肘を噛みちぎる。指がばらばらになり、肩が潰れ、どんどん細かくなっていく。食道を速やかに落ちていき、胃に至る。胃の熱さを感じながら溶けていく。余談だがこの胃の熱さはとても気持ちがいい。冷え切った体で風呂に入った気持よさが何倍にも増幅されたような感覚で、とても安らかで温かい気分になるのだ。そして開いた幽門をくぐり、十二指腸から小腸に向かう。いつものとおり、ここで感覚がなくなった。しかしそれからしばらく経った後、異様な感覚が俺を襲った。左腕がもう一本生えたような、おかしな感覚だ。しかもその腕は俺の意思では動かせない。その腕が動くときは、まるで力づくでねじ伏せられているような感覚がある。俺の意識は混乱した。なぜこんなことが起きるのだろうか。思考に耽ろうとしていたところ、三本目の腕が動かされた。同時に少女が視界の端で動いた。水を飲むために起き上がったらしい。恐ろしい違和感があるが、三本目の腕に意識を集中する。もしかしたら、と思うことがあった。そしてそれはそのとおりだった。俺の二本目の左腕の動きは、少女の左腕の動きと一致していた。


それから更に数週間が経った。俺は少女の体のほとんどの感覚を手に入れていた。なぜこのようなことが起きるのかは分からないが、消化された俺の体が少女の体の一定以上を構成するようになると感覚が生まれるのではないかという推論を立てた。実際のところは分からないし、そんなわけないとも思うのだが、実際に感覚があるのだから仕方が無い。この体ではすることというか、できることもないし、動く体の感覚があるのは気晴らしになる。この頃、少女はたまに体操をするようになった。少女もすることがないわけだし、この生活に良くも悪くも慣れてきたというのもあるのだろう。


食用肉になった俺は少女に食べられつづけ、その少女は暗い檻の中で生き続ける。奇妙な共同生活とも言えない生活が続いていた。なんのためにこんな生活を送ることになったのか、その理由を模索するのにも飽きていた。俺も、そしておそらくは少女も。こういうよくわからない状況というものは、そうやって慣れた頃に終わりがやってくるものだ。


足音が聞こえた。一人分の足音だ。背を壁に預けてうずくまっていた少女が顔を上げる。あの時と同じように、光が鉄格子の向こうから差し込んだ。

「出ろ」

女が鉄格子を開きながら言う。光から目を背けた少女の腕を掴んで強引に立ち上がらせた。少女は目を閉じて俯いたまま、女に連れて行かれる。鉄格子が音を立てて閉まった。十数歩歩かされ、そこから階段に変わる。上りだ。少女の体の感覚は、少女が離れて行っても感じられるままだった。少女は目を閉じたままで、廊下や階段の様子はわからない。ただ、一人分の靴音と一人分の裸足の足音が聞こえ、歩かされている感覚があるだけだ。十分ほど歩いて、ようやく立ち止まった。扉が開く音がする。その部屋の中からは奇妙な音が聞こえた。機械が動いているようなモーター音だ。その部屋の中に少女は入れられた。そこで少女が目を開ける。少女が見たものは、ベルトコンベアーに載せられ、機械に切断される少女達だった。ベルトコンベアーの先を見ると、肉の塊は薄くスライスされて、どうやら食用にされるようだ。少女は腰が抜けたように座り込む。女が少女を立たせて、ベルトコンベアーに乗せようとする。


食用肉になったのは、どうやら俺だけではなかったらしい。


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