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飛ぶにも吊るにも軽すぎて

「ここから飛ぶのは、どう?」

歩道橋の上で、オレはそいつに話しかけた。

「え?」

そいつは振り向いて、首をかしげた。風に短めの黒髪が揺れる。風の音で聞こえなかったのかも知れない。

「だから、ここから飛ぶのはどうかって」

「あー、それは嫌」

すこしだけ申し訳なさそうな顔をして、そいつは答えた。

「どうして」

「もう、決めてあるんだ」

そいつはそう言って、持っていたビニール袋を示した。ホームセンターの袋だ。中には何が入っているのだろうか。

「ついてきて」

そいつはオレの手を握って、早足で歩き出した。冬の冷たい空気の中、その指の温度はオレの体表に熱を分け与えた。しかし、その温度は心に沁みない。心が暖かさを受けいるには、もう重く固まりすぎているのだろう。



そいつと出会ったのは今朝のことだった。眠れないまま過ごした午前四時、オレはベッドに寝転がって携帯電話を弄んでいた。憂鬱に暗い画面を見つめ手遊びにキーを操作していたところ、数年前の癖が復活したのか、とある掲示板にたどり着いていた。低俗な感情の捌け口と暇つぶしのツールを兼ねたような、巨大とは言えないが決して小規模でもない掲示板だ。オレはしばらく、数年前から変わらない、性欲で動いているような男たちと暇を捨てに来る少女たちの言葉の合い挽きを眺めていた。数回更新ボタンを押した時、新着書き込みにそいつの言葉が載った。

『死のうと思います。誰かわたしと一緒に死にませんか』

書き込みの名前欄には、「莉沙」と表示されている。ネカマでなければ女だろう。オレはそのスレを開いた。当然、ただ話すきっかけとして心配の言葉をかける男たちの書き込みで埋まった。そいつは男たちを相手にせず、日時と場所を指定して『では、一緒にさよならしてくれる人を待ってます』と書きこんで、それ以上書き込みをしなかった。しばらくは男たちも書き込みを続けていたが、「莉沙」からの反応が無いので離れていった。

オレは書き込みはしなかった。だが、久しぶりに意識が刺激に引っかかって、微かに動いた。心の動きを物理的に表せるとしたら、おそらく数ミリのズレに過ぎないだろう。だが、それはオレに行動を起こさせるには十分だった。なぜなら指定された場所は自転車で数十分の場所だったからだ。もっと他にも理由があるのだろうが、意識に浮いている理由はそれだけで、他の理由は掬わなければ自分にも読めなかった。

オレは着替えて部屋を出て、暗い屋外へ繰り出した。自転車に跨り、霜の降りた道路へ進む。息が白く色づき、呼吸の存在をむやみに主張する。肌を切るような寒さと相まって、生きているということがひしひしと感じられて鬱陶しい。だがそれを感じているオレ自身は死にに行ってる、って事になるんだろう。

待ち合わせの場所はコンビニだった。駐車場の端に自転車を停め、そこで待機する。携帯を確認した。待ち合わせの時間までまだ相当あるようだ。何も考えずに飛び出してしまったことを少し後悔した。息の行く末を追い続けて暇をつぶす。隣家の庭の木の梢にとまる小鳥を目で追う。鳥は飛び降り自殺するのかなあ、なんてそんな事を思った。

「あんた、もしかしてさ」

こちらをちらちらと見ながら店内に入り、しばらくして何も買わずに出てきた女の子が話しかけてきた。

「ん?」

オレはその少女に向き直った。黒いコートを着た、オレと同年代くらいの少女だった。

「もしかして、」

とそいつは繰り返した。

「もしかして、『莉沙』か?」

俺が言うとそいつは一瞬ビクッとして、

「そう、そうだよ」

と答えた。



「この木、いいでしょ」

そいつはオレの手を引いて近くの無人の神社まで連れてきた。鳥居をくぐり、隙間から雑草が生えた石畳を進んだ。手水舎は水をたたえず、この神社は参拝客を考慮していないのではないか、と思っていると、そいつが声をかけてきた。

「なにが?」

とオレが訊ねると、そいつは少しムッとした表情を見せて、

「あの枝。首を吊るのに最適」

少し背伸びし、指をさしてそう言った。

「なるほど」

オレはとりあえず頷いておいた。持っている袋の中身は、大方ロープもしくはそれに準ずる何かだろう。

「今から死ぬ?」

オレに背を向けて木を見つめているそいつの後頭部に声をかける。

「さよならするのは、夜のほうがいい」

オレの手を掴んでいるそいつの指に、少しだけ力が篭った。死への決意の表れ、と受け取ってみた。真偽の程は、ともかく。



オレがそいつのハンドルネームを呼んだ時、そいつは意外そうな顔をしていた。多分、本当に誰かが来るとは思わなかったのだろう。

「あんた、あのスレに書きこんでた人の一人?」

そいつは白い息と共に言葉を吐き出した。

「いや、違う。ROMってた」

そしてオレの息の白さも、そいつの視界の一部を占めているのだろう。

「ふーん」

そいつはマフラーを巻き直し、

「あんたもさよならしたいの?」

と訊いてきた。

オレは頷いた。

「そう。じゃあ、一緒に行こう」

その言葉と裏腹に、そいつは前触れ無く回れ右をして歩き出した。一緒に行く気はあまりなさそうに見える。しかしオレはそれに続いた。自転車は置いておく。どうせ死ぬのだ、自転車など気にしなくてもいいだろう。

朝の明るい空気の中では、死を語ってもどうにも気分が出ない。オレにとって自殺はファンタジーで、おそらくあいつにとってもそうなのだろう。変わらない日々に退屈して、抑えつけられる日常に鬱屈して、思い通りにならない状況に絶望して、自殺というファンタジーにすがるのだ。死んだら何か変わる気がする、気がするだけだ。危機に晒されて、思いつめて、何かを強く思うが故に、とか、そんな切羽詰まった自殺願望じゃない。だから、そういう人に対してはオレたちは失礼な考えを持って自殺を望んでいるのかも知れない。でも、したいものはしたいのだ。オレは、オレたちは自殺に夢を持って鬱々と日々を過ごしている。

少女は早足で歩く。寺の前を通り新幹線の高架下をくぐり、川沿いに歩き続ける。その背中は、白い陽光の中でも寂しそうに見えた。少なくとも、俺の目には。



少女が死に場所予定地の神社を後にした行き先は、中学校の隣の一軒家だった。中学校といっても、オレの通っていた中学校ではない。近くではあるが、オレの家はこの学校の校区ではなかった。

「上がって」

そいつの行動の理由が分からなかった。

「え?」

と必要最小限の言葉で疑問をぶつける。

「いいから」

そいつは強引にオレを扉の内側に引き込んだ。

「親、いないし」

今いないだけなのか、恒常的にいないのか。そいつの言い方ではどちらか分からなかった。だからオレは、今日会ったばかりの男と一緒に自殺するのと家に連れ込むのではどちらがより不貞な行為なのかという議題の解決を脳に課した。全く残念でもないことに、その問いへの解答は出なかった。

そいつはオレを寝室に入れた。何をしようとしているのかわかる気がするが、それが正解だと確信できない。展開が唐突すぎるから。オレの意識がそういう方向に向いていなかったから。彼女が黒い服を着ているから。そして、その服を脱いでいるから。

「自分でも何をしたいのか分からないんだけど」

何故かそいつは不機嫌そうに言った。

「あんたも服、ああ、脱がなくてもいいか」

そいつはオレをベッドに突き飛ばした。なんでこんなことになってるんだろう、と薄暗い部屋の天井を見ながら考えた。だが、その天井もすぐに見えなくなった。そいつが覆いかぶさってきたから。夜までの時間つぶしかな、と思っておく。彼女も一応あの掲示板の住人なわけだし、そういう思考を持っていても不思議ではない。などと、冷静なフリをしている。実際のところ大混乱中。


眩しくて目が覚めた。閉じていたカーテンが開けられている。あいつがやったのだろう。ベッドの上で半身を起こして、あいつを探す。いない。あの後、オレは疲れて眠ってしまった。寝不足のせいもあったのだろう、今はもう次の日の朝になっているようだ。もしかしたら、あいつは夜のうちにベッドから出て、あの神社に行ったのかも知れない。オレも後を追って首を吊るべきかな、と思ったが、なぜだか死ぬ気が失せていることに気づいてしまった。死ななくてもいいような気がしている。重くなりすぎた心が、溶けて軽くなっているような気分だ。オレは立ち上がって、とりあえずこの家を出ようと思った。廊下を歩いていると、勢い良く水が流れる音がした。オレは驚いて、足を止める。もしあいつの親などであったらどう言い訳しようかと考えた。

「あー、うぇー」

意味のない音を伸ばしながら、あいつがトイレから出てきた。腹に手を当てている。

オレは少し安心した。何に安心したのだろう。彼女の家族ではなかったことか、彼女がまだ生きていたことにか。どちらの理由か決めかねたが、おそらく後者の比率が高いだろう、と自分を客観視した。

「痛むのか?」

と訊いてみる。

「いや、そっちじゃなくて、えー、生理が来た」

反応に困った。

「……なるほど」

「で、なんかどうでも良くなった」

この発言には容易に同意できる。どうやら同じような気分を共有しているようだ。

「自殺しようと思った日に初めて家に男連れ込んじゃったし、自殺予定時間の夜は寝コケて過ぎて朝になっちゃうし、朝になったらまだ先だと思ってた生理が来てるし、今は本当ならもうこの世とさよならしてたはずなのにトイレでナプキン当ててたんだからもうほんと死のうと思ってたこととか全部どうでも良くなった」

早口でまくし立ててきた。話している途中で声が小さくなっていき、最後の方はとても聞き取りにくかった。

「オレもどうでも良くなったよ」

そう言ったら、

「今の気分だったら、あの歩道橋から飛び降りてもふわりと着地できそうだし、首を吊っても苦しくならないような、そんな気がする」

とそいつは答えた。

「飛び降りるにも首を吊るにも、」

「「軽すぎる」」

そいつはオレと顔を見合わせて、笑った。


初出:『Coronet 2012年2月号』